ある日ふらりと小説の町にやってきたその人が口を開いたとき、小説はあらたな声で歌いだしました。冬乃くじ arrived
遊戯性の靴を履き、物語と小説のあいだを往還する作家、自身が一ジャンルである作家が、またひとり登場しました。
猫の身体を世界として各地方で生を営む生物たちの物語「猫の上で暮らす一族の話」は、きわめて独創的であり、小説的空想の祝祭のようです。
書物自身を視点としたこれも独創的な「ある書物が死ぬときに語ること」は、書物と生への哀惜にあふれています。
深い寂寥感をたたえたスモールタウンファンタジー「国破れて在りしもの」、稲垣足穂をモダナイズしたような短文「星降り」は儚く美しい。そしてこれまで存在しなかったナラティヴ、見ようによっては究極的に洒脱な「健康と対話」。
第4回ブンゲイファイトクラブの覇者、待望の第1短篇集。9篇収録。
表紙は倉田タカシ。
400字詰め原稿用紙換算約110枚。500円。
収録作
「猫の上で暮らす一族の話」
「ある授業」
「星降り」
「サトゥルヌスの子ら」
「愛あるかぎり」
「わすれもの」
「ハッピー・バースデー」
「ある書物が死ぬときに語ること」
「健康と対話」
「あいがん」
「水と話した」
「国破れて在りしもの」
「猫の上で暮らす一族の話」抜粋
夜、人間の隣で一ぴきの猫が眠っている。とちゅう、寝返ったり、ゴムのように伸びたりし、それから驚異的なやわらかさで丸くなって一息ついたとき、猫の額に住む小さな者と、猫の腹に住む小さな者が挨拶をする。
やあ。また代謝したね。
ヒタイ系の語彙の豊かさに触れると、ハラ系はヒタイ系と友達でいることが誇らしくなる。けれど代謝などという立派な言葉を自分がつかうのは照れくさくて、ハラ系は自分の言葉で返す。
きみも、この間会ったときのきみと違うね。新しい体っていいよね。ぼく死んだことに気づくたび、この腹ぜんぶ駆け回りたくなるんだ。あっ、ごめん、そんなことより、なにか新しい話はある? いま猫は何を考えてる?
「星降り」抜粋
それから好きな音楽の話とか、親とうまくいかない話とか。「大げさだって言われる」と、僕。「僕は何でも、大げさに受け止めるって」すると彼が「ひどいな。傷の深さとか痛みとか、本人にしかわからないものなのに」と言う。
僕はカフェラテに口をつける。あたたかかったせいか、嬉しかったせいで、涙ぐむ。気づけば彼も涙ぐんでいる。彼は自分の顔を指して言う。
「おれは親から、おれは他人の影響を受けすぎる、って言われるんだ」
僕たちは泣きながら微笑み、他人から見ればささやかな痛みを、二人でそっとわかちあう。
外に出ると、路上の人たちが天にスマホを向けている。何だろと言いかけて息をのむ。ビルとビルの間の、夜空が一面、満天の星だった。二十どころじゃない。何百、いや何億か。天の川まである。路面店や街路樹のイルミネーションより断然すごくて、きれいというより不安になった。ここまで地上がライトアップされているのに、なぜこんなに星が見えるのだろう。もしかしてオゾン層が極限まで薄くなったのか。空気はいつまでもつのだろう、死ぬときは苦しいだろうかと、世界の終りを思って絶望したとき、ゆったりとした音声が聞こえてきた。
「ある書物が死ぬときに語ること」抜粋
そこには、自分の物語を話せる本が大勢いた。夜になると、一冊が語り始める。大きい声をもつ本の話は遠くの棚までよく届いたので、その間、他の本同士がお喋りする時もあった。儚い声の本もいた。その声はあまりに小さかったので、それが語り始めると、本達は皆喋るのをやめて、耳を傾けなければならなかった。小さな声を中心に、静けさが同心円状に広がってゆく瞬間が、わたしはとても好きだった。
背中がすこし日に焼けたころ、わたしは老人に買われてゆき、背の高い本棚の、下から三段目に入れられた。その部屋は壁じゅうが本棚で、中央の空間に簡素な椅子が八つと、小さな木の机が一つあった。その机を七日ごとに老人達が囲んだ。一人が本棚から本を取り、分厚い眼鏡をかけて朗読する。他の老人は頷いたり目を閉じたりして聞く。嘆息をもらす。一人は檻の中の猛獣のように、足音を立てずに部屋を歩き回りながら聞く。
「健康と対話」抜粋
まず大腸に話しかけた。いやどうも……。いかがでしたか人参は。人参って冷蔵庫の中でも外でもすぐ傷むから、二人暮らしの敵とみなしてカレーも人参なしでやってきたんですが、まさか人参が大腸さんのお好みだなんて、そのー、知ってたけど、忘れてたんです。へへ。すみません。とにかくどうです、イケてましたか人参は。大腸は何も言わなかった、もとい大便は出なかった。妹に報告すると「慇懃無礼」と厳しく非難された。「三十年もお姉ちゃんのために働き続けた大腸に敬意がない。普段、他人とどんなコミュニケーションとってんの」そもそもこの「話しかけ」が便秘に効くと言い出したのは妹だった。我々姉妹は便秘に効くと聞けばすべて試してきた。ヨーグルトに納豆、ウォーキング、ツボ、瞑想、あらゆるサプリ。医者には「心因性ですね」と漢方薬を処方された。「どこも異常ないし、その生活で出ないのは、ストレスです」そんなこと言われても、職場には種類の違うクソが四人いて、日々交代でやらかしてくる。妹も心因性らしく、我々は下剤を手放せなかった。下剤を飲むまでお腹がはるし、飲んだら飲んだで下痢になる。そんなある夕飯時、舞茸の味噌汁を飲み終わった妹が箸を置き、厳粛な面持ちでこう言った。「我々は人間ではないのかもしれない」
プロフィール
冬乃くじ(ふゆの・くじ)
小説書き、イラスト描き。第4回BFC優勝。