マジックアナクロニズム来臨
『アヴィシィ』の本篇はいまだ完成にいたっていない。かのスペインの教会のように。
予告篇『アヴィシィ』は以下のようにはじまる。
発 行 者 あ て の メ ー ル よ り
「惑星と口笛ブックス」のラインナップにくわえていただきたい作品の件でご連絡いたしました。ただし概略をごらんにいただくまえに発表にあたってのマイナス面を、まずは作者本人の口から申告しなければならないとおもいます。マイナスの最たるものは、ひとえに本作が未完だということ、なおかつ長篇だということ…(中略)…しかし創作期間がむなしく10年におよばんとする現時点で、せめて作品の一部でも発表しておきたいという焦燥にかられたために、せんだって渋谷でおめにかかった夕刻につづいて、メールでもこうしてご相談するしだいでございます。
【概略】
「アノニマ」Anonymatをひとまずは本作タイトルにしましたが、『ヴォツェック』3幕15場にもとづく3部15章の長篇。ただしアルバン・ベルクの上記オペラからは無調の技法/形式だけを援用して、チャプターごとの内容はほのかな相関性しかもたせないものといたします。ようやく全体の2/3をしあげましたが、ここからが難関…(中略)…このたびは全3部からおもに1章ずつを抜粋して、つじつまがあうようにコラージュしたものを世に問うてみたいですが、かんがえてみたら未完の作品の断片を、あたかも映画の予告編のごとく発表しようという企図も、こんにちの出版においては電子書籍だけに可能なだいごみといえないでしょうか? 『アノニマ断章』『アノニマ ~未完のロマンの予告編』などのタイトルが、したがいまして当座のそれに妥当かとおもわれます。
現実とフィクションのボーダーからはじまる本書は、つまり遠くない未来に世界に現れるはずの巨大な文学作品、異貌の大冊の予告編である。
実在した渋谷の街娼「パンティねえさん」、テコンドーによって神話的な力を手に入れた巨軀のアフリカ人、意図せざるまま拳銃を手にした男などが混沌とした世界を混沌と行く。めくるめく聖と俗。マジックアナクロニズム。
400字詰め原稿用紙換算約50枚。表紙デザインは著者。200円。
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収録作
【第Ⅰ部】5つ の 音 楽 的 小 品
【第Ⅱ部】5楽 章 の 交 響 曲
【第Ⅲ部】6つ の イ ン ヴ ェ ン シ ョ ン
抜粋 (「5楽 章 の 交 響 曲」より)
あのときWとつれだって体育館にあらわれた異人の身長は、ゆうに二メートルをこえているようにみえた。サークルの日常が、アフリカの魔鬼(ジエニー)に魅いられた瞬間だった。トレーニングは中断されて、メンバーはやおらWとその大男とをとりかこんでいた。ギャーッスディーン゠クァヒール・ラツァマンディンビ・ペラ……うんぬんの大男がとちゅうまで口にした自身の姓名もナイル河にせまる長大さでおぼえられるはずがなく、イニシアルからGとよぶことに満場一致できまった。アフリカの地図からガーナやケニアもさがしだすことができない日本の学生が、かりに紹介者のWから四国の二倍くらいの面積しかもたないらしいときかされても、サハラ以南のどこにGの祖国が位置するかもわかるはずはなく、たとえ彼がそんな小国の王族だときかされたところで未開の地平やら裸族やらを適当にイメージするだけの学生たちが、フェリペ世の宮廷などとおなじ高貴や洗煉をそこにみてとるはずもなかった。さらに再開されたトレーニングにまざって、アフリカ人が驚異の身体能力をみせはじめると、もはや王族はおろか人間ともかかわりがないサヴァンナの野獣そのもののイメージを、かれらはそこに定着させた。
抜粋 (「6つ の イ ン ヴ ェ ン シ ョ ン」より)
「むかしむかし」Es war einmal おなじ病室でマリはときおり祈禱のあとにそんなドイツ語をくちずさんでいた。おさないころによく父親の書斎からきこえてきたオペラのレコードのせりふらしい。むかしむかしかわいそうなこどもがおりました。おとうさんもおかあさんもいなくて、みんな死んでしまって、この世に知りあいがひとりもいなくて、はらぺこのこどもは昼も夜もすすりないておりました。うたうともしゃべるともつかないドイツ語をくちずさむマリの横顔をながめながら、こっちはたまに子宮がひきつるような感覚におそわれた。うそじゃない。むすめがいるの。いまは二歳よ。わけがあって施設にあずけてるの。すきで風俗嬢をやってるわけじゃないわ……おもいあまって、グラーヴェなはなしをでっちあげながら、こっちがますますグラーヴェな気分におちこむと、しらけちゃうわといってマリはためいきをついた。エロスのために娼婦は生きるのよ。むすめだなんて貧乏くさい。エロスのための快楽のための娼婦よ。むすめのためだなんていってほしくないわ、うそでもほんとでもね。それから部屋にふたたびドイツ語がこだました。
プロフィール
岩﨑 元(いわさき・げん)
『海豚座に捧ぐ百一発の砲声』(河出書房新社)刊行まで真木健一を名のる。
およそ十年まえより本作脱稿につとめる。