日本ファンタジーノベル大賞の大賞・優秀賞受賞者20名の全作書き下ろし超弩級アンソロジー。原稿用紙換算約900枚。第1作『万象』についで日本のアンソロジー史上2位の枚数です。紙のアンソロジーではほぼ収録不可能である中篇4作の掲載を達成、21作いずれも入魂の傑作、21世紀のこの国の空想・幻想・綺想の広がりが一望できます。まさに空前絶後。
今回のテーマは「気象」「経済」「傷」「卓球台」です。
表紙は井村恭一。原稿用紙換算約940枚。1000円。
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目次
「きつねのよめいり」涼元悠一 (59枚)
「借家惑星カメダス」北野勇作 (20枚)
「人罪難」冴崎伸(95枚)
「投貨源記」山之口洋 (126枚)
「温井博士の完璧な妻」西條奈加 (35枚)
「贋冬」藤田雅矢 (22枚)
「八木沼さん・夏」森青花(5枚)
「あねさまのくつ」勝山海百合 (9枚)
「赤の荒野で」 粕谷知世 (18枚)
「走馬燈」渡辺球(29枚)
「ある晴れた日」堀川アサコ(27枚)
「グロリオーサ」紫野貴李(79枚)
「君といつまでも」久保寺健彦 (8枚)
「TEN」日野俊太郎(49枚)
「宿命と偶然が」「スモールビューティフルグリーンボトル」西崎憲(計8枚)
「ばっくれ大悟婆難剣福耳」 三國青葉 (58枚)
「右手」 石野晶 (23枚)
「地の底の熱狂」関俊介(131枚)
「天使と阪堺線」斉藤直子 (45枚)
「こいだま」 柿村将彦 (32枚)
「まとめ人日記ふたたび」斉藤直子
作品紹介と抜粋
「きつねのよめいり」涼元悠一
少年期の記憶。優れた抒情性とかすかな恐怖をたたえた佳品。涼元悠一がいたった独自の境地。
特殊学級には、一人だけ女の子がいた。
同い年ぐらいだったと思う。短いおかっぱ頭、体も手足も折れそうに華奢で、肌が透き通るぐらい白かった。本名は覚えていない。ただ、まわりからは『きつねちゃん』と呼ばれていた。漢字でもカタカナでもない、ひらがなの『きつね』だったことが、妙に印象に残っている。
きつねちゃんはまともに授業に出ず、途中で教室を出て帰ってこないことも多かったらしい。それでも、学校ぎらいではなかった。
放課後になると、きつねちゃんは赤いランドセルを背負ったまま、校門の脇にあるベンチにちょこんと腰かけていた。別になにをするでもなく、つれだって下校する生徒たちをいつもだまって眺めていた。本当にただ眺めているだけで、話しかけてくることはなかった。
「きもちわりいよな、あいつ。いっつもニタニタして」
そんな陰口も聞いた。自分にはニタニタではなく、ニコニコしているように見えた。
四年生の初夏、ベンチのところではじめて言葉をかけた。
「なんで名札つけてないの?」
どうしてそんなことを訊いたかは覚えていない。単に話のきっかけが欲しかっただけかもしれない。
きつねちゃんはちょっとだけ戸惑ったと思う。でも、にこっと笑って、言った。
「きつね、だから」
自分ときつねちゃんは、時々一緒に下校するようになった。
「借家惑星カメダス」北野勇作
2020年に『100文字SF』を刊行し、独自の分野を開拓した北野勇作の飄然とした世界。北野勇作の世界へようこそ。
その理由を尋ねても、お勧めしない、の一点張りで、でも「貸し家」と表に貼り紙をしていたのだから、貸す気がないわけではないはずだし、さらにしつこく家賃を尋ねてようやく言ってくれたのは、相場の半額くらいの値段だ。まあもうちょっと貰ってもいいんだけど、ほら、すぐに出ていくことになったら、ちょっと悪いでしょう、などとやっぱりいかにもなことを言う。
家主の女性に背中を向けて部屋の隅に妻を呼び、これはやっぱり何か出るんじゃないかなあ、そのことで後で文句を言われるのが嫌でああいう態度を――、そう囁いてみたところ妻がいきなり、あのお、ここって何か出るんですか、と大声で家主に尋ねた。
家主は一瞬きょとんとしてから、ああ、そういうことね、とうなずき、出ませんよお、と笑ってから、いや、でも、ちょっとだけ出るかな。
ちょっとだけって。
妻と声がぴたりと揃ってしまった。
うーん、ちょっとだけって言うか、まあ出るには出るんですよ、でもまあそういうあれじゃないから、と家主。
どういうあれなんですか?
またしても声が揃ってしまった。まるで映画かテレビドラマの双子である。
似たもの夫婦ねえ、と家主はつぶやいた。
まあ物干しに出るんですけどね、ちょっと見てみます?
物干しに?
そう尋ねたときにはもう二階への階段を登り始めていたから、夫婦でその後に続いた。
「人罪難」冴崎伸
格闘家の経歴を持つ異色のファンタジー作家は、いまななんと複数の会社役員。本作はサラリーマン綺譚ともいうべき中篇です。今後どういう方向に進むのかとても楽しみな作家です。
「キサマだと? キサマがキサマだろうが! ボケカスコラァ!」
おれはドカンと拳を机にぶちあてたのち、どっせえーいと部長の机をひっくり返した。静かなオフィスにけたたましい音が響いた。キーボードが挟まったのか、ミュートが解除され、おまけに音量がマックスになった。うふぅん、あはぁんと卑猥な声が流れだす。部長、スキスキ、大スキ、イクーという声は、シチュエーションがちがえば、マジで大笑いしただろう。
部長があわててキーボードを探したが、音は止まらない。部長は奇声をあげ、コンセントやコードをつぎつぎに引っこ抜いた。
凍りついたようなオフィスで社員全員が見つめるなか、おれは四つん這いの部長を見下ろした。部長が道端のつばに見えた。
「そ、組織というものはな、きょ、協調性が、キ、キミには大事なそれが欠けて」
部長が叱られた子犬のようにふるえていた。なんだこいつ。こんなに小さいやつだったのか。
考えてみれば、平和な日本人は忘れがちだが、議論で負けようが、会社の立場がどうだろうが、いざとなれば暴力沙汰になる。昔、空手でならしたおれだ。それも喧嘩空手といわれる極真空手の黒帯。戦えば絶対におれが勝つ。
「ひ、人の見た目について、これは重大なハ、ハラスメントだぞ。いや、就業規則上だって、こ、こんなことをしてタダですむと、だ、大問題だ」
「じゃあ、会社をキャバクラとまちがえてんのはどうなんですかねえ! 何人も何人も手ぇだして辞めさせやがって! 中野も池永も川内も西田も、みんなてめえが原因じゃねえか! みんなてめえの立場に気ぃ使ってるだけじゃい! そのすけべったらしいツラを鏡で見てこい、どゲスやろうが! 就業規則だあ? 頭、蹴り割ったろか!」
おれはパソコンを蹴りあげた。それが部長の頭の上を飛んでいき、部長が悲鳴をあげて頭をかかえた。よく見るとおしっこを漏らしている。ちとやりすぎたかと思ったが、なに、いい薬だ。
こういうとき、ドラマや映画なら、社員がスタンディングオベーションでおれに拍手を送る。
―真木さん、すごい! スカッとしました!
―かっこいい! あこがれちゃう!
現実はちがう。おれが振りむくと、八十人はいる全員が一斉にパソコンへ顔をそらした。これが現代の日本だ。
「投貨源記」山之口洋
今回のテーマのひとつは「経済」で、ファンタジーにとってはもしかしたらもっとも難しいテーマかもしれません。けれど、そのテーマはこれまでにないタイプの傑作を多数送りだすことになりました。そのうちの一作です。実体験を素材を見事にファンタジーにしあげた著者に脱帽。
「そうだ。いっそ”明日”なんか来なけりゃいいんだ」
そう口に出したのか、それとも考えただけか、思い出せない。気の迷いとはこれだろう、その時は素晴らしい考えに思えた。この高さから、あの石地蔵に向かって飛び込めば、すぐに楽になれる。忌まわしい明日も明後日も来ない。あの名前たちの仲間入りをするわけだ。おれは身体を少しだけ傾けた。谷底から吹き上げる寒風が頰をくすぐり、うっとりと気が遠くなった、その時、
「いまじゃ!」
シャランという鈴の音とともに、耳元で老人の大声が聞こえた。驚いて身体ごとふり返った途端、朽ちていた傘石が石柱からガクリと外れて、おれは崖っぷちでつま先立ちになった。参道に、錫杖を手にした枯れ木のような老僧と、おかっぱ頭の娘が並んでいるのがようやく目に入った。その姿が、おれの身体の傾斜とともに、すうっと視界の下側に消えかけたとき、「ほれ」老僧が差し伸べた錫杖を、とっさに左手で摑んだ。シャラン……涼しい音がまたした。
「最期に訊くが、おまえはなぜ死ぬ」
「温井博士の完璧な妻」西條奈加
西條奈加は2020年に直木賞を受賞しました。『新青年』が現代にあれば掲載されていそうな軽快なこの作品は、直木賞受賞後発表第1作になります。
「私の妻を、誘惑してほしい。それが取材を受ける条件だ」
新宿駅に近い喫茶店は、客で込み合っている。周囲の喧噪をよそに、榎田はたっぷり十秒は言葉を失った。
「それは、つまり……」
「妻に、浮気という既成事実を作ってほしいんだ。引き受けてくれるなら、君だけに独占取材を頼もう」
フリーのルポライターにとって、独占取材は麻薬に等しい。一も二もなく飛びつきたいところだが、相手の思惑がまったく読めない。
「ひとつ、確認したいのですが……離婚を望まれているわけでは、ありませんよね?」
「あたりまえだ。先月、結婚したばかりだぞ。未だ新婚気分だよ」
「だったら、どうして?」
「万理を、完璧な妻とするために、必要なプロセスだからだ」
「贋冬」藤田雅矢
抒情SFの名手藤田雅矢の今回の作品は、なんと季節の「冬」の擬生物化です。独特の語りをご堪能ください。
すると、じさまはひもを解いて袋の口を開け、中を広げて見せた。
「辰彦、何が入っとるか見えるか?」
おれは袋をのぞき込んだが、中には何も見えなかった。
「なんも入っとらん」
じさまは仕方がないなと、袋の中に手を入れて何か取り出すような仕草をしたが、それでもよくわからない。さらに、その取り出したものを持っているかのように、手を差しだしてくる。
けれどもおれには、じさまの手しか見えなかった。おれはおそるおそるじさまの手のひらに触れようとした。そのとき――
「冷たっ」
さっき袋の上から感じたひんやりした柔らかい何かが、そこにあるのがわかった。でも、それは見えなかった。これは手品なのか。
「これは、贋冬じゃ」
「八木沼さん・夏」森青花
『万象』に登場した古本屋店主「八木沼さん」の再登場です。八木沼さんは紙に囲まれていれば幸せなのです。
古ぼけた扇風機が、店内のなま暖かい空気をかきまぜている。
八木沼さんは、クーラーが苦手だ。だから。同じ商店街の山口宝飾店からもらった扇風機を使っている。
今日も八木沼さんはご機嫌だ。
ゆっくりと起きて、熱いお茶をふうふうしながらすすり、新聞に目を通す。
八木沼古書店は開店十時だ。九時半頃から、店を開ける準備をする。といっても、店内の本の棚にふうーっと鼻息をかけ、ほこりを吹きとばし、綺麗になったことにし、百円均一本のワゴンをゴロゴロと引っ張り、店の外に出すだけだが。
「あねさまのくつ」勝山海百合
勝山海百合の掌篇は2020年、英語圏のウェブマガジンに英訳が何篇か掲載されています。筆力の高さはさらに顕著になっていくようです。
「あねさま、御身を低くしていてくだせえ」
秋児は木造の小さな舟を夜の海に押し出しながら短く言葉を発した。小舟の筵を被せられた膨らみは声に応えて動かない。
「まだ沖に出てないすけ」
踏ん張る秋児の足を濡らす波が、足の裏から砂を掻き取っていく。秋児は年若い女だが、上背があって肉付きがよく、文弱の男などよりもずっと力強かった。
秋児は舟の縁を掴み、寄せる波と返す波の力に耐えていた。膝まで濡れ、腰まで濡れ、初めは冷たいと感じた水も重苦しく感じられてくる。体温が奪われ、濡れた脚から湯気が上がる。舟が波に浮かぶと、秋児は縁を掴んでいた腕に力を込め、舟が返らないようにゆっくりと腰を引き上げ、足を舟に入れる。それから櫂を取って漕ぎ出した。潮の流れに乗れば、そして無事に島を見つけて辿り着ければ……。
(媽祖さま、お守り下さい)
「赤の荒野で」 粕谷知世
おそらく現代日本でもっとも古代の叙事詩作家に近い心性を持つ作家です。スパンが大きく、かつ乾いた語り口は、他の作家からはけっして得られません。
「マサラは子供を捧げなくても祈りをかなえてくれる神に会いたくはないか」
「そんな神がいるもんなら、そりゃあ、お目にかかりたいさ」
「ルクマ」
乳飲み子と三歳の子を失った若い女は七つの子を抱えたまま、アドベに向き直った。
「もし、そういう神がいるとしたら、そういう神になら、心から仕えることができるか」
ルクマは目を光らせてうなずいた。
「それなら、そんな神がいるかいないか、我らの呼びかけに応じる気持ちがあるのかどうか確かめてみよう」
アドベは枯木の陰から、太陽のほうへ向かって一歩を踏み出した。木陰で待つ者たちには、情け容赦ない西日にさらされたアドベが、光の海のなかで揺れる水草のように見えた。
アドベは足下から小石を拾った。丁寧に赤砂を払い落とすと、その石を額につけて「神よ、小さき者弱き者を生け贄として求めることのない神よ。もし我が声が聞こえるなら聞け」と叫んで、頭の上にまっすぐ投げ上げた。
小石は赤砂に霞む空へと吸い込まれていった。
アドベを見守る六家族は、小石がアドベの頭を直撃するのを今か今かと待った。
アドベは石像のように動かない。
一、二、三と数えたが、小石が戻ってくる気配はなかった。
「そこにいるなら、出てこい、神よ」
大地が揺れた。
10 「走馬燈」渡辺球
日本ファンタジーノベル大賞の作家は基本的に一人一ジャンルのようなところがあります。渡辺球のスタイルに触れるとあらためてそのことが感得されます。ひじょうにドメスティックな題材にかかわらず、海外小説のテイストも感じさせる作品です。
目が合った瞬間、僕は反射的に手で顔を覆った。
背中を向けてその場から逃げ出したい衝動に駆られた。けれども、もうはっきりと顔を見られてしまっている。それに女の子は僕のことを注視してはいるものの、僕の顔の傷には頓着していないようだった。
僕は顔の右側を女の子と反対の方に向け、傷のない左側だけを見せるように姿勢と顔の向きを変えた。女の子は僕の不自然な動きを不審がることもなく、さっきと変わらない表情で僕を見ている。
「……どこから来たの」
黙っていることができず、僕は口を開いた。誰かに声を掛けるのが何日ぶりか、何十日ぶりかわからなかった。喉の奥の筋肉がごわごわに固まっていて、ちゃんとした言葉になっているかどうかもわからなかった。
「んー、おばあちゃんとこ」
「ある晴れた日」堀川アサコ
堀川アサコはファンタジー・幻想とエンターテインメントを独自のやりかたで結びつけました。幅の広さ、書き手としての体力は、永久機関的にファンタスティックエンターテインメントを生みだしていくはずです。
アニキと子分は銀行強盗であった。
ここで昼食を買って食べて、それからユズ子の勤務する銀行の支店に押し入って強盗をするはずだったという。
(ああ)
ユズ子は愕然とした。何という運の悪さだ。支店で仕事をしていても、ここに昼食を買いに来ても、ユズ子は強盗事件に巻き込まれる運命だったのである。なんか、前に似たような話を聞いたことがあった。
(バグダッドで……)
バグダッドに住む人が街で死神を見た。死神が自分のもとに訪れようとしているのを知った彼は、相手を出し抜こうとしてサマラという街に逃げて行く。しかし、そこでも死神に会ってしまったから、ひどく驚いた。しかし、死神もまた驚いていうことには──こうしてサマラで会うはずだったのに、あなたがバグダッドに居たものだから驚きましたよ──。
(って感じ)
それほどのレベルで、ユズ子はついていないのである。
「グロリオーサ」紫野貴李
日常のなかの不穏、人のなかの不穏、それがこれほど巧みに、ゆっくりとした足取りで描かれている作品は現代文学・幻想文学を通じて、あまり見たことがありません。集中の白眉のひとつです。今後の執筆にも大きな期待がよせられるところです。
せめてお名前と連絡先をと、響子は遠野の腕をとらえた。それが大胆に受けとめられたのか、彼は一瞬、瞠目して振り返った。響子は自分のはしたなさに気づき、慌てて手を放した。気まずい空気が流れたのも束の間、遠野はスーツのポケットから名刺入れを出した。そして、名刺の裏にボールペンで文字を二列書き流した。
表には消防本部の名と司令補の肩書きが載っている。
「消防士なんですか」
「ええ。分隊長を務めています」
道理でと、響子は思った。消火活動に携わる消防官はフル装備をすると、その重量は三〇キロにもなると聞いたことがある。それでいて、ビル火災時には階段を最上階まで走って登って被災者を探したり、逃げ遅れた人を担いで助けたりするというのだから、並大抵の体力ではあるまい。
響子は遠野好昭の顔を見あげた。稜線はやわらかく、炎を背負って不動明王のごとく奮戦する消防士の印象からは遠い。が、両手で響子の顔面を覆ってもあまりそうな手は、骨の太さが外観からでも推測できた。衣服の下に隠された筋肉の有様を想像して、響子は体の芯がほてるのを感じた。
「裏には自宅と携帯の番号を書いておきました」
「君といつまでも」久保寺健彦
久保寺健彦の少年少女は、すぐれた日本の児童文学にこれまで現れた者たちの相似形です。つまり著者は今後、少年少女文学を更新していくはずです。期待に胸が高鳴ります。
ぼくはいつものダム遊びを始めた。水たまりの横に枝で溝を掘り、水を引きこむ。どんどん掘っていき、移しかえるのだ。いろんな場所でしたけど、いちばんいいのはこの校庭。地面が固いせいで、水がなかなか吸いこまれないからだ。九人の声に背をむけ、一心に掘った。その女の子に気づいたのは、溝がだいぶ増えたころだ。だから、遊び始めてけっこうたってたはずだけど、気づいたのは突然だった。
その女の子は、側溝のおおいの上にしゃがみ、膝に立てた両手で顔を支えて、ダムを見てた。青いギンガムチェックのワンピースに、コルクのサンダルをはいてる。長く、真っ黒な髪は豊かで、伏し目でも瞳が大きいのがわかる。四年生か五年生くらいに見えた。伏し目のまま聞いてきた。
「なにしてるの」
「ダム遊び」
「TEN」日野俊太郎
TENは人が創りだしたもの、架空の存在です。けれどその架空の存在は実在物と密接に結びついています。はっきり言いましょう。ファンタジーとは実在のもののことであり、実在とはファンタジーの異称なのです。
水面がごぼごぼと光り輝きながら泡立ち、金色の角がぬっとその中から現れた。
俺は息を呑む。
一本一本に意志があるかのようにうごめく太い毛がその二本の角を包み、そのままずるりと巨大な頭を堀の中から掴み上げた。
辺りから、声にならない嘆息が漏れる。
鋭い眼光が俺たちを捉え、耳まで裂けた口からは青黒い舌が覗いている。
龍だ――。
誰かが呟いた。
「宿命と偶然が」「スモールビューティフルグリーンボトル」西崎憲
二作の掌篇です。「宿命と偶然が」にはダンセイニ卿の作品のエコーがかすかにあり、「スモールビューティフルグリーンボトル」には著者の小説観が色濃く反映されているようです。小説における語らないことにかんする考察かもしれません。
宿命と偶然がカフェで話をしていた。
宿命は存在のすべてを司っていた。宿命の手を逃れられるのは偶然だけだった。
偶然にはなんでもできた。けれどただひとつ自分の願いを叶えることだけはできなかった。
「ばっくれ大悟婆難剣福耳」 三國青葉
ライトハーティドなファンタジーはいつの時代もなくてはならないものです。そして三國青葉の作品は二重のファンタジー性を備えていて、ファンタジー理論の研究者にとってはひじょうに刺激的な存在かと思います。
「徳田由利と申します。こたびはお世話になりまする」
由利は畳に両手をつかえ、深々と礼をした。その隣で夜雲が、ずっとこの家に暮らしているかのようなくつろいだ様子で、せっせと顔を洗っている。
「いや、世話をすると決まったわけでは……」
「じきに日も暮れまする。まさかこの寒空に、哀れな年寄りを追い出すなどという無体なことはできますまい」
「う、あ、まあ、それはそうですが……」
「さて、夕餉の支度でもいたしましょう」
止める間もなく由利は立ち上がり、土間へとおりた。大悟が住まうこの長屋は、間口は一間半、奥行きは二間。上半分が障子になっている入口の引き戸を開けると、一畳半ほどの土間があり、部屋は四畳半ひと間だった。
土間に入ってすぐの右手には、水がめが鎮座していた。その隣には流しとへっついがある。
「見事になにもないのう……」
「右手」 石野晶
石野晶作品の質感はとても現代的なように見えます。この作品では「ファンタスティック」はこちらにやってきます。これまでの作家が書かなかったふうに。独創性に優れた愛すべき作品です。
学校についてからも、右手の暴走は止まらなかった。黒板を写そうと鉛筆を持つと、ノートに勝手に落書きを始める。紙くずを丸めて、隣の子に投げつけようとしたから、左手で全力で止めると、周りの子に何してるの? という目で見られてしまった。
もうメリには、何をどうすればいいのかわからなかった。右手が何かに乗っ取られてしまったとしか思えない。悪魔にでもとりつかれてしまったんだろうか。こういうことって、一体誰に相談すればいいんだろう。先生か、お医者さんか、それとも神父さんか。
お弁当は幸いなことにサンドイッチで、メリは左手だけでそれを食べることに成功した。だけどその間も、右手は勝手に動き、フォークをにぎって口に運ぶような仕草を続けている。一緒に食べている友人達に、「何ふざけてるの?」と笑われてしまう。そのうちの一人に言われた。
「わかった。ピオ君と二人で、何か新しい遊びを始めたんでしょう」
「地の底の熱狂」関俊介
おそらく世界初のシチュエーションの登場です。なにしろ、クロナガアリの世界に株式が導入されるのですから。すべてが緻密に描かれ、ファンタジーであると同時にミステリーでもあり、ジェンダー小説でもあります。そして遠くない将来、蟻ファンタジーの世界的傑作と呼ばれるようになるでしょう、
「何もなかったところから、新しい価値が生まれたんです。すばらしいと思いませんか」
「わかるようなわからないような」
コンペキが見ているものを私はまだ共有できない。何かがちらついてはいる。言葉にならないもどかしさばかりがふくれあがっている。
「結局のところ、あなたはいったい何が言いたいの」
「あなたがたが他の巣に投資するんです」
「かわりに髪をもらってくればいいわけ?」
ユラの髪を抜いている自分を想像して吹きだしそうになった。ばかばかしい光景だ。
「髪はちょっとした例えです。ミヨリさんの美しい髪にふれたいあまり、口実として利用してしまいました」
「あなたは自ら評価をさげるのがとても上手ね」
「それほどでも」
「誉めていないわよ」
「時価は生ものです。たとえ下落しても反動はすぐに来ます。その波で僕の価値は急騰する。僕を見つめるミヨリさんの瞳はきっときらきらと潤んでしまうことでしょう」
「ありえない」
「一度ご考慮をいただければ、この理論がいかにすぐれているかご理解いただけるはずです」
「考えた」
「さすが。すばやいご決断もまたあなたの知性と美を惹きたてる」
「帰って」
コンペキはおおげさに頭を抱えた。
「そんなはずはない。本心では揺らいでいるはずです。心のどこかでひっかかっているはずです。ミヨリさん、あなたは自分に正直になるべきだ」
「今ほど正直になったことはない」
「二分でいいです。可能性について考えてみてくれませんか」
「考える価値はない」
「いいえ。考える価値はあるかもしれない」
後ろから腕をひっぱられた。いつからそこにいたのか。タマキが私をコンペキから遠ざけて、耳元でささやいた。
「この話は使える」
「何に?」
「女王ウツシミの巣に食糧を渡す理由よ」
「天使と阪堺線」斉藤直子
斉藤直子の創造力、既知、徹底性はまちがいなく国内最高レベルです。なぜこの作家がこれほど無名なのか、出版界の七不思議ではないでしょうか。名作「ゴルコンダ」は2020年に英語圏に訳出紹介されました。
そして、これは斉藤直子の明治物です。可能性におののきます。
「あのう、お代を」
ようやっと僕は本題を切り出した。
「生憎といまお財布がなくってさ」
女は悪びれもせず応じる。
お客の筋が変わってたびたびこういうことがある。本店ならば売り子も多く、奥で差配さんも目を光らせているけれど、僕ひとりのここは与し易しと映るらしい。冷やかし値切りはまだましで、ゆすりたかりもままあった。小心者の僕としては、くれて済ませたいところであるものの、商売であるので是非もない。
「じゃあ煙草を返してください」
「やっぱし東京もんだろ、その喋り」
女は愉しげに笑うのみである。笑い声に混じってガシャンと鉄の音がした。エレベーターが着いたのだ。
「ああ、お財布が来たよ、お兄さん」
女の待ち人が来たらしい。女は朝日を持った右手をエレベーターのほうに振る。ひたりひたりと草履の音が近付いて、
「――あんたが定かえ」
けだるく淫靡な声がした。
現れた待ち人もまた女、しかも見れば覚えのある顔だ。
この展望台にときどき現れる、臈長けた妖婦といった風情の年増である。洗粉の箱の美人画よりも白い肌をして、来るたび違う相手と会っていた。今回のように女どうしであることも少なからず、男二人女一人など変則的なこともある。
「ねえねえ」
定と呼ばれた女が白い妖婦に言う。
「煙草のお代、このお兄さんにやってくんない?」
定はすでに箱の封を切っており、切り口に歯を立て一本咥えて出していた。
「いろいろと躾が要りそな子やね」
「こいだま」 柿村将彦
日本ファンタジーノベル大賞の作家は一人一ジャンルと書きましたが、柿村将彦はその度合いはなかでも随一と呼べるレベルです。そしてその独創性が発するところはプロットでも描写でもありません。そもそも柿村将彦を測る言葉はまだ生まれていません。ただ、テイストについて言えるだけです。なんだこのテイストは?
「ところで尻子玉って知ってる?」
「……」
知ってはいるが……なんで今そんなことを言うんだろう? おかげで私の空想には水かきのついた腕が割り込んできて、恋心の玉を鷲づかみにする。やわやわした玉に鋭い爪が食い込む。
「河童の好物って言われてる玉なんだけど、お尻に手を突っ込んで……」
「知ってます」
私は神丘さんを遮って、「で、その尻子玉」……じゃない。「……恋心の玉がどうしたんですか?」
「うん。でね、その恋心の玉っていうのも、尻子玉みたいにぶっこ抜くことができるらしいんだよ。尻子玉を取られたら腑抜けになるっていうけど、恋心の玉を抜かれると、それまであったはずの恋愛感情が一切なくなっちゃうんだって」
そりゃそうだよね、心を盗られちゃうんだから、と言って、神丘さんは腕時計を見た。それと同時にチャイムが鳴った。しかし先生はまだ現れず、席もあまり埋まっていない。
「……何の話ですか?」
「さっきの続きの話だよ」
神丘さんは半笑いみたいな顔のまま続ける。
「もしかしてひかりちゃん、その玉を盗られちゃったんじゃない? だからその楠木君とかいう子に興味なくなったのと違う?」
「全部河童の仕業ってことですか?」
「や、恋心を盗むのは河童じゃないらしい」
「じゃあ何なんです」
「恋泥棒」
プロフィール
北野勇作(きたの・ゆうさく)
小説家 一九六二年生まれ。著作に『かめくん』『カメリ』『どろんころんど』『100文字SF』等。
藤田雅矢(ふじた・まさや)
一九九五年『糞袋』で第七回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。受賞作も《惑星と口笛ブックス》より復刊、また短篇集『エンゼルフレンチ』などを電書で配信中です。園芸書『捨てるな、うまいタネNEO』もあり、植物を愛でていじります。このところ藁の道祖神などが気になって見に行ったり、今回の作品はそんなところともつながってます。
山之口洋(やまのぐち・よう)
一九九八年『オルガニスト』で第一〇回日本ファンタジーノベル大賞受賞。この作品にはたっぷりと元手がかかっている。優に八桁に届く投資の損、成田山新勝寺での延べ数十日におよぶ断食修行……。いろいろ損ばかりしてきた人生だったけれど、今は「生きてるだけで丸儲け」と素直に思えるようになったのだから、大厄災の力ってすごい。
涼元悠一(すずもと・ゆういち)
一九九八年、『青猫の街』で第一〇回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞
森青花(もり・せいか)
一九九九年、『BH85』で第一一回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞、千葉県船橋市在住。趣味は写真撮影と俳句。
寒椿小さき猫のうずくまる 青花
ほととぎす乳房も灰になりゆくか 青花
斉藤直子(さいとう・なおこ)
二〇〇〇年『仮想の騎士』で第十二回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。《惑星と口笛ブックス》より同書電子版(二〇一八年)および短篇集『ゴルコンダ』(二〇一九年)刊行。今回の作品はこの集まりの大阪遠征のとき、阿倍野筋の筋力(?)に圧倒された勢い余って書いたもの。あんな人もこんな人もこの筋に!
粕谷知世(かすや・ちせ)
二〇〇一年『クロニカ 太陽と死者の記録』で第十三回ファンタジーノベル大賞を受賞。二〇二〇年二月、当短編と同じ世界を舞台にした新作『小さき者たち』刊行。(twitter @Chise_KASUYA)世界的災厄のなか、皆さんのご健康を心からお祈りしています。どうぞ、お元気で!
西崎憲(にしざき・けん)
二〇〇二年に第一四回日本ファンタジーノベル大賞受賞。英米仏西小説翻訳者でもある。音楽レーベル dog and me records と電子書籍レーベル惑星と口笛ブックスを含むオルタナキュレーション惑星と口笛主宰。
渡辺球(わたなべ・きゅう)
二〇〇三年『象の棲む街』で第一五回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。この作品を書き上げたときはまさか東京オリンピックがこんなことになるとは思ってもいませんでした。
西條奈加(さいじょう・なか)
二〇〇五年『金春屋ゴメス』で第一七回日本ファンタジーノベル大賞受賞。日頃、時代小説ばかりなので、SFが書きたい! との大志をもって臨みました。本格SFになるはずが、何故かいつもの温いコメディになりました。
堀川アサコ(ほりかわ・あさこ)
二〇〇六年第十八回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞『闇鏡』(改題『ゆかし妖し』)でデビュー。SF→歴史小説→ミステリー→幻想文学→中間小説と、無節操に好みが変わるままに書かせてもらってます。本当は、タニス・リーみたいな作品を書く人になりたかったんですけど。どこでまちがったんでしょう。青森市在住。おしゃべりな白いセキセイインコと暮らしています。刊行情報はTwitter(@horikawa789asak)にて。
久保寺健彦(くぼでら・たけひこ)
二〇〇七年『ブラック・ジャック・キッド』で第一九回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。同作は二〇一九年、《惑星と口笛ブックス》より電子書籍化。今回の作品は、諸星大二郎さんのマンガのワンシーンから着想を得ました。いまのところ唯一のショートショートです。
紫野貴李(しの・きり)
二〇一〇年『前夜の航跡』(「わだつみの鎮魂歌」を改題)で第二十二回日本ファンタジーノベル大賞受賞。
石野晶(いしの・あきら)
二〇一〇年『月のさなぎ』で第二十二回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。他『水光舎四季』など。四歳の息子のために、カブトムシの幼虫を飼育中。
勝山海百合(かつやま・うみゆり)
岩手県出身。「軍馬の帰還」で第四回ビーケーワン怪談大賞、「さざなみの国」で第二十三回日本ファンタジーノベル大賞受賞。「あれは真珠というものかしら」で第一回かぐやSFコンテスト大賞受賞。近著は『厨師、怪しい鍋と旅をする』(東京創元社)。ブログは「鳥語花香録」
日野俊太郎(ひの・しゅんたろう)
二〇一一年『吉田キグルマレナイト』で第二十三回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。
三國青葉(みくに・あおば)
二〇一二年「朝の容花」で第二四回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞(改題「かおばな憑依帖」)。神戸市出身、徳島県在住。お茶大SF研OG、池波狂、時代劇オタク、猫の下僕。時代小説とキャラノベを書いています。
Twitter @mikuni_aoba
note https://note.com/mikuni_aoba
関俊介(せき・しゅんすけ)
二〇一二年、「絶対服従者(ワーカー)」で第二十四回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。二〇一六年に長編「ブレイン・ドレイン」。二〇二〇年九月現在、四年半もかけてしまった長編はじわりじわり出版に向けて進行中。こんなご時世ゆえ、新しい担当編集氏とはまだ一度も会っていない。でも電話ではおどろくほどに会話が盛りあがった。
冴崎伸(さえざき・しん)
千葉県南房総市千倉町生まれ。第二十五回日本ファンタジーノベル大賞・優秀賞でデビュー。二〇一五年より経済同友会・会員ほか土木設計、外国人採用などに奔走しつつ執筆中。最近の壁は、書けども書けども出版に至らない力不足。
柿村将彦(かきむら・まさひこ)
『隣のずこずこ』で日本ファンタジーノベル大賞2017受賞。最近はヤマザキのあんずっしりどら焼きにはまっています。