惑星と口笛ブックス

クォータービュー 遠藤紘史


 日々の影、影のなかの時間、時間を超える想念を、静謐きわまりない筆致でつづる短篇5作。
 デパートのレストラン街が閉まったあと、一つ目で二対の触手をそなえた「怪人」からオセロを挑まれる「ローズオープニング」。
 久しぶりに寄ったバーでスコットランド北部スペイサイドの閉鎖した蒸留所のウィスキーを飲む男。立ちのぼる記憶、時間の階層のなかで、スペイサイドの短い夏を思う「スペイサイドの空」。
 ふたつの時間をアロワナが結びつける「三月の高崎へ」。
「クォータービュー」の舞台は病院の深夜の個室である。過労で入院した彼女は思いついて荷物に放りこんだ携帯ゲーム機で明かりを落としたままゲームをはじめる。子供のころになじんだゲーム。暗い病室で錯綜する時間、祖父の言葉、家族で行ったナイター、夜の特急、ゲーム機のなかの街、少年。幾重もの内省。
 一歳の男児を乗せたベビーカーを押して水族館を訪れた男。水の生き物に囲まれた空間で記憶がゆっくりと口を開く「都市の海水」。
  
 登場人物たちは都市の回廊や時間の回廊を黙劇の人々のように行き交う。世にも静かな作家のデビューです。
 400字詰め原稿用紙換算148枚。表紙写真は小野田光。
 価格600円。

  ローズオープニング 抜粋

「お仕事は何を?」
 オセロ盤から視線を離さず、かれが尋ねた。金融業界です、と簡単に答えると、ほぼ真下を向いていた目玉 がこちらに向いた。
「そうですか。あなたの感じからすると、営業というわけではないんでしょう。内勤で、運用関係などされてるんじゃないですか?」
「ええ」
 主に債券を扱っている、と付け加えた。
「そうですか。特に最近は厳しいでしょうね」
 かれは目玉を少し傾けて同情してくれた。両腕の触手はどんな構造をしているのだろう、表面 はかさかさと乾いていて、蛇の鱗を思わせる質感だが、潤滑油が隅々まで行き渡っているかのようにとてもよく伸び縮みし、繊細に動かすことができる。そして、その大きな目玉 はときに速く、ときにゆっくりと様々な角度に動き、見開かれ、細められる度に、その表情を豊かなものにしていた。
  かれはこちらが驚くほどに業界の事情に詳しく、ついいろいろなことを話してしまった。複雑な金融商品の価格設定の仕事をしてきたが、かつてない金利低下に見舞われ多額の損失を計上しそうなこと。その損失を埋め合わせるための方策を考えているが、経営層が求めるような都合のよいものはどこにもないこと。それでも取締役会の資料のために大勢に影響はないというストーリーを作る必要があり、その資料作成と関係部署との調整のために休日出勤が重なっていることなど。石をひっくり返しながらかれは言った。
 「たしか、金融取引の基礎となる理論を発見したのは、日本の数学者でしたね」


  スペイサイドの空 抜粋

 歩きながら、この小さなバーを中心とした風景のことを考えてみる。舌の上にはまだ、炭のざらざらとした感触が残っていた。中心にあるのは半地下のバーであり、カウンターに並べられた無数の蒸留酒のボトルたちだ。そこでは私は一年ぶりにやってきた客であり、彼女は一年のあいだ来ていない客でしかない。
 大丈夫、と彼女に伝えたかった。例えば、来年のいま頃にここに来れば、彼女は二年ぶりに来た客となる。それだけのことだ。それぞれのボトルはいまからもう一年、時間を積み重ねている。その合計は数年かもしれないし、数十年かもしれない。けれどもそこにはたしかに、彼女が過去にここを訪れた時間も含まれているのだ。五年なら五年の、十年なら十年の、三十年なら三十年の一部分として。彼女にいま、そう伝えたかった。


  クォータービュー 抜粋

 病室は十四階にあり、窓からは明け方の街を見下ろすことができる。病院に面 した道路をタクシーがまばらに通り抜けていく。道路沿いには川が流れ、その向こうに高層ビル群が見える。私の職場のビルもそのあたりにあるはずだが、他の建物に隠れている。
 データをセーブして、ゲーム機の電源を切った。そうして目を閉じる。外はさらに明るさを増し、高層ビルのガラスの表面 を光らせはじめる。
 電源を切られた後も液晶画面は完全には消えず、オニオンシティの風景を映しつづけていた。その中央にはリュックサックを背負ったブルーのキャップの少年がひとり、こちら側を向いて立っている。表情はよくわからない。ドット絵は少年の表情を細かくは描写しない。
 しばらくすると、少年はまっすぐに歩きはじめた。ドラゴンを連れて、表情を変えずに。少年は街の外へと出て行く。その姿を映すと液晶画面は完全に消え、明け方の光が病室を包んでいく。


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