「かれ」とその幼なじみ、ふたりの過ごした時間に重ねられる僧侶と勇者という役割。そして言語と魔法、勇者と魔王の同一性。本作は反青春小説あるいはポスト青春小説の試みである。
著者初の電子書籍書き下ろし。
町屋良平は「青が破れる」で第53回文藝賞を受賞し、「1R1分34秒」で第160回芥川龍之介賞を受賞している。
町屋良平が文藝賞から現れたのは偶然ではないだろう。文藝賞からは多くの青春小説、新しいテイストの青春小説が輩出していて、いかにも新しい文体をそなえた「青が破れる」が登場するのにふさわしい場なのである。
しかし、町屋良平の小説を青春小説という語だけでくくるのはそろそろ止めるべき時なのかもしれない。そもそも青春小説という語は広告以外の意味をあまりもたない。実質的には何も意味しないし、せいぜい登場人物に若者が出てくるくらいで、内容も読者も「青春」とそれほど関係ないのだ。
いずれにせよ、町屋作品にはほかにもキーワードがたくさんある。この『冒険の記録』のなかにもそれらのキーワードが散見される。ゲーム(ボクシングもゲームの一種である)、「バディー」、意識の流れ的文体など。
そしてここには町屋作品に通底する少し冷たい「チルアウト」の感覚がある。熱狂から抜けだしてひとりになった者の感覚。何らかの夢から覚めた者の感覚。それは今後町屋作品を読む者にとって議論されるべき主題のひとつになるだろう。
表紙画像は『ものするひと』『みつば通り商店街にて』などで熱い支持を受けるオカヤイヅミ。
シングルカット第7作。400字詰め原稿用紙換算約24枚。価格280円。
抜粋
書をひもとき、言語の可能性を拡張しても、それを排斥しようとする志向に真っ向から抗することはできぬ。そう考えれば勇者側の理屈にも頷けるが、しかしそうことを急いてよいものだろうか? そう問いかけると勇者は、
「そうするしかないだろう」
と応えた。
この勇者はかれの幼なじみであった。子どものころには「まこっち」「きーちゃん」と呼びあった仲だが、いまでは実名を呼ぶなどタブーにひとしい。勇者は勇者であり、メタファーなのであり、つまりこの世界もメタファーであるのなら、かれら自身もメタファーなのであるから、これは現実批判とかそのようなたぐいの物語ではない。
僧侶であるかれは沈黙した。勇者は「そうするしかないだろう」といった。そうするしかないだろうという応えには抗するべき言語がない。勇者の世界を揺るがすようなことばをかれはもちえなかった。そういうときには沈黙がいちばんよい。なにかことばを重ねれば重ねるだけ、先方のことばの力も増してしまうことはわかっていた。勇者とて知見がなければ戦士と区別 がつかないし、魔法をつかうことも叶わない。魔法とはすなわち言語のことである。奇なる現象を信じさせるために魔法があり、その礎としての言語がある。
「そんなことより、この怪我、治してくれよ」
と勇者はいう。そんなこと? こういう無神経さがかれの言語を妨げる。勇者もレベルがあがりさえすれば、「経験」を積み、こちらの士気をあおったあげく魔法の効果 を上積みさせることが可能になるのかもしれない。この世ならぬことばをてきとうに積み重ねし、「難解な」語彙を駆使して描写 や詩語をくみたてて、「治れー治れー」と祈りながら勇者の怪我した部位を慈しめば、勇者は「治ったー」と応えるのだった。
かれはつぶやいた。
「つかれた。こんなふうに詩をつくったり強度のある描写を組み立てるつかれをおまえたちはわからないだろうが」