『ななつの娘と夜の旅』は「月の巻」「水の巻」「石の巻」の3冊で構成される連作で、北野勇作の作家そしてイメージの開拓者としての野心を感じさせる作品となっている。
今回はまず月の巻で、収録は4作、「第一夜 天使が落ちている」は、ななつの娘が、天使が落ちていると言うので、つれだって見に行く。しかし、その〈天使〉の想像を超える異貌、奇怪さ。
「第二夜 影を渡って」は、月光が作る物の影を渡っていく娘の後を追ううちに起こる奇妙な変容を描く。
「第三夜 ロボットが行方不明」は、娘の作ったダンボールのロボットが行方不明になったので探しに行く話で、結末に現れるロボットの描写 は、不可思議かつ繊細で魅力的である。
「第四夜 空き地に月が」で、父と娘は思わぬところに月を見出す。稲垣足穂を北野勇作的にアップデートした印象の佳篇。
不可知で不穏で、夜しかない世界へようこそ。帰れなくなっても残念ながら責任はとれません。
抜粋
第一夜 天使が落ちている
なるほど天使が落ちている。
男はそっとつぶやいた。
頭の上はまぶしいほどの満月で、高台から突き出た黒くて平らな巨石のその端から、男は更地を見下ろしている。
いかにも冬の月らしいその光は、いかにも冬の月らしく冷たく鋭く、四角い更地の土の上には、くっきりと影がある。
様々な影。個々の持つ様々な特殊機能を体現しているかのような形の影だ。
留める。
吊るす。
絞める。
打ち込む。
ねじ切る。
繰り抜く。
押し当てる。
数値化する。
こじ開ける。
もちろんそれだけでなく、天使に対して施す様々な処置を表現するそのためだけに作られた様々な言葉と、それを用いてもなお表現し切れない様々なあれこれを為すための機能を投影した形なのだ。
それらが、生き物を連想させるのは、与えられた機能がそのまま形として表われているからだろうか。実際ここからだと、いろんな種類の昆虫が樹液に群がっているようにも見える。
第二夜 影を渡って
ねえ、影渡りしようよ、影渡り。
ふいに、娘が言う。
影踏みだろ、と男が言うと、ちがうちがう影渡り、と大きく首を振る。
影踏みは、きらい。
どうして?
鬼がくるから。
鬼が?
そうそう、やってると鬼が追いかけてくるでしょ。だから、きらい。
娘は顔をしかめてそう言うと、目の前に落ちている電柱の影に娘は、ぽい、と跳び乗り、そのまま電線の影の上を、つととととととと、と渡っていく。
ほらね、影渡り。
影から影へと渡っていったその先の影の中から振り向いて言った。
ケーブルテレビだの光回線だの他にもなんだかんだと線が増えてきたせいか、電柱と電柱とを結ぶ影もいつからかずいぶんと太くなっていて、今夜は月が明るいから、道の上のそれはよけいに濃く感じられる。道路に描かれた奇妙な図形のように男には見えるのだ。
空はよく澄んでいて、満月に近い月のその鋭い光のせいか、夜空はすこし紫がかっている。
第三夜 ロボットが行方不明
晩ご飯を食べているとき思いついたさらなる改良をロボットに加えようと玄関に行って、そこで初めてロボットがいないことに気がついたのだと言う。
いやしかしそんなことが、とぶつぶつ言いながらも娘に引っ張られて男が玄関に行ってみるとなるほど、今ではそれが立っていのが当たり前になっていた一角に、ロボットの姿はない。
あのロボットがこの場所に立ったのはついこのあいだなのに、それがないだけでなんとなく違う場所になってしまったような気がしてくるから不思議だ。
そして、ああそう言えば、と男は思う。
午前中に宅配便を出しに行くのにここを通ったときには、なんの違和感もなかった、ということは、あのときはまだロボットはここにあった、ということではないか。もし無かったら、今のようになんだか頼りないすかすかした変な感じがしたはずだから。
いないでしょ。ロボット。
おかしいなあ。
誰かが持って行っちゃったのかなあ。
いやあ、そんなもの持って行くかなあ。
第四夜 空き地に月が
今夜の月は明るくて、夜空が月の色に染まって見えるほど。
そんな月に向かって歩いていた。
でっかい月だなあ。
男が言う。
でっかいし、どんどん落ちてくるねえ。
娘が言う。
あいかわらずうまいこと言うもんだ、と男は感心する。横に見て歩いているときはいっしょについてくるように見える月だが、たしかにこうして正面 の空にあると下りてくるように見える。
それは前方の建物が、近づくにつれて次第に大きくつまり背が高くなっていくように見えるのに対して、空にある月だけは視界の中で変わらず同じ位 置に見えているからなのだろう。しかし、それを娘にどう説明すればわかってもらえるのかが男にはわからない。前にいちどそのままの言葉で説明してはみたのだが案の定、ぜんぜんわからん、とあっさり返され、そのままになっているのだ。
どう説明すればわかりやすいかなあ、と道路の先に浮かぶ大きな月に向かって歩きながら男は今夜も考えていて、そのあいだも、月はどんどん落ちてくる。
400字詰め原稿用紙換算約107枚。表紙は森川弘子。
価格300円。