第13回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品。本邦には珍しい叙事詩の資質をもった作者がインカ帝国の最後の日々をおそるべき想像力で描ききった大冊。原稿用紙換算約670枚。
インカの最後の王、無慈悲な巡察使、生きているミイラたち、韋駄天の少年、聖ヤコブの化身である白い騎獣に乗った雷神にいどむインカの神獣ピューマたち。この巨大かつ稀なる幻視の叙事に刮目すべし。
インカの少女たちを描いたスピンオフ短篇「月の卵」(約38枚)を併録。
表紙は高田美苗。
価格800円。
ハラウエク
三章 語 り 部 抜粋
「いや、ただ腹が満ちたからというには喜びが過ぎるのではありませんか」
アマルがそう反論したとき、北東の方角で谷間から昇る霧のような白煙が切れた。切れ目から青空がのぞき、アマルはそこに風に乗るコンドルの影をみとめた。
四州各地の高原で山の神の化身として崇められるコンドルは、世界の臍では太陽神の使者として尊ばれる。日輪を旋回しながら獲物を探す習性が、王のそば近くに控えて下命を待つ扈従の様子に似ているためである。
コンドルは、その赤い禿頭を喜びの広場へまっすぐに向けて飛んでくる。
太陽の大祭に聖なる鳥が訪れる以上の瑞兆はない。内臓占いによる失望が深かっただけに、人々は躍り上がって太陽の使者を歓迎した。
喜びに沸騰する広場のなかで、アマル一人は、とっくの昔に克服したと思い込んでいた悲嘆、苦痛、後悔、憤怒、怨恨に襲われた。
余人にどうあれ、アマルにとってコンドルは災いの使者以外の何者でもなかった。かつて同じようにコンドルが頭上を舞ったとき、妹のサラはアマルの手から奪われた。あのとき、コンドルさえやってこなければ、コンドルに驚いたサラが言葉を発したりしなければ、そして、それを自分やワマンがお婆に言いさえしなければ、あの小さな妹は今も自分のそばにいるはずだ。
アマルを狭い村、理不尽な怒りを爆発させる父の家に結びつけていたのはサラだった。サラをなくしてアマルはよりどころを失った。先師タキに拾われ、むさぼるように知識を吸収したのは語り部の伝統につながることで世界の一隅に居場所をみつけるためだった。
それなのに、今また、あの忌ま忌ましい山の神の使者が現れ、その巨大な翼のひとあおぎで、絶壁の端にしがみつくアマルを虚空へ吹き飛ばそうとする。
アマルは舌が痺れるほど苦々しい憎悪をコンドルへぶつけた。
アマルの呪いに感応したかのように、コンドルは突然、空中で体勢を崩した。祭りの参列者はそれを太陽神からの挨拶だと解釈した。コンドルが翼を反転させて落下しはじめたのも太陽神の祝福を伝えるためと理解された。
コンドルは大歓声に沸く喜びの広場へ降下してきた。
間近で見るコンドルは病み爛れて醜かった。頭だけでなく胴体まで疥癬にやられて赤く禿げていた。膿で汚れた羽が皆の頭や肩にはらはらと散った。
大広場を囲んだ太陽の民も、喜びの広場に立つ地方高官、行政官僚や将軍、太陽の大神官に神官たちも声を失い、動きを禁じられたかのように硬直した。供犠台と太陽の玉 座近くに控えた大耳族は大きな耳朶を震わせて竦み上がった。インカ王ワスカルは玉 座に棒立ちになり、まるで黒い影の墜落を押し止めようとするかのように両腕を高く天へとさしのべていた。
粕谷知世(かすや ちせ)
1968年愛知県生まれ。大阪外国語大学イスパニア語科卒業。
2001年『クロニカ 太陽と死者の記録』で第13回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。
2005年『アマゾニア』で第4回 Sense of Gender 賞大賞を受賞。
そのほかの作品に『ひなのころ』『終わり続ける世界のなかで』『小さき者たち』がある。
ブログ 粕谷知世のクロニカ【記録】