〈北野勇作2本立て〉シリーズ第1弾。近年あらたな小説の地平を切り開きつつある北野勇作の短篇を2作収録。
「路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日」は、子供の頃に住んだ王国に帰ってきた男の見る光景を描く地誌的作品。北野勇作はいよいよ世界最深の綺想の領域に踏みこんでゆく。
「壁の中の街」が描くふたつ目の王国にあるのは、まず城壁である。主人公は城壁のなかにあるホテルに宿泊している。迷宮のごとき城壁の回廊、奇妙な居酒屋の主人、想像もしないやりかたで現れる妻。想像力の文学の最新アップデートをインストールしてみませんか。
400字詰め原稿用紙換算約88枚。
表紙は森川弘子。
価格380円
路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日 抜粋
むしろ、こう言い換えるべきかもしれない。
王は、王宮のあらゆる点に偏在しているのだ、と。
そう、位置が確定できなくなったとは言っても、その範囲を限定することは可能なのだ。
すくなくとも、王が王宮から出たという記録はない。王宮への出入りは二十四時間、複数のカメラによって死角の無い状態で観測され続けている。つまり、密室なのである。
だから、ある日、忽然と姿が見えなくなったという王の居場所は、この王宮内に限られている。
最後に王の姿が観測されたのは、地下へと向かう通路だった。
王宮の地下。
そこは、迷路のように入り組んでいる。いや、迷路のように、ではなく、そもそも非常時において王を隠す、という目的で作られた迷路なのだ。
当然、その構造は誰も知らない。
誰が作ったのかも明らかにされてはいない。恐らくその誰かは、迷路の完成と同時に迷路のどこかに埋められてしまったのだろう。
とにかく王は、そんな地下の迷路のどこかに存在している。そんな不確定な状態の王に代わって、王妃は女王となったのだ。
壁の中の街 抜粋
嫌な夢で目が覚めて、嫌な汗を流すために浴室に入ったそのとき、それに気がついた。
一本の黒い髪の毛。
その長さからして、自分のものではありえない。
象牙色の浴槽の内側に貼りついたそれは、まるで排水口から這い出してきた生き物のようにも見える。
排水が何かの具合で逆流して、浴槽に出てきたのだろうか。
つまみあげてみると、するするすると何の抵抗もなく穴から引き出されてきた。切れもせず、引っ張った分だけ素直に出てくるのだ。
首をかしげつつも引っ張った。
どこまでも出てくる。
引き出した髪を自分の後ろに送るようにして、さらに引き続けた。
しゅるしゅるかたしゅるかたしゅるかた。
排水口の金具と髪の毛が擦れる音が、浴室のなかに響いた。
いっこうに終わらない。
しゅるしゅるかたしゅるかたしゅるかた。
終わる気配が無かった。引き続けているうちに頭が痺れたようになって、なんのために自分がそんなことをしているのかわからなくなってくる。
しゅるしゅるかたしゅるかたしゅるかた。
身体が勝手に動いている。
というか、動かされている。
裸でなにをやっているのだろう、と思う。
いや、もちろん、わかっている。一本の髪の毛を引き続けているのだ。それはわかっているのだが――。
それにしても、いつまで続くのか。
今自分の後ろにはどれくらいの長さの髪が溜まっているのだろう。
怖くて振り向くことができない。